(13号掲載)
松元さんの歩み
ドラムTAOをご存知でしょうか。ここ鹿屋市にも毎年のようにライブツアーで訪れているので、ドラムTAOの公演を見たことがある人も多いかと思います。今回は、そのドラムTAOを30年近くここ大隅半島にお呼びしている松元さんにインタビューさせていただきました。

鹿屋市出身の松元さん。短大を卒業後、地元に戻り信用金庫で働きながら、20代の頃から鹿屋市青年団で地域の活性化に尽力していました。青年団は、当時、鹿屋市にいる20~30代の若者を中心に集まって、地域のイベントやさまざまな活動を通じて、町おこしの活動を行っている団体でした。
その中の活動で、松元さんの人生を大きく変えた活動が鹿屋市青年団の「青龍太鼓」でした。
「一度だけ友人に誘われて、青龍太鼓の練習を見に行ったんです。そこで『ちょっとやってみない?』と言われて少しだけ叩かせてもらったところ、先輩たちから『すごい、うまい、できる、できる』と褒められ、その次の週からすっかりハマってしまいました」と松元さんは笑顔で語ります。
青龍太鼓の輝かしい時代
青龍太鼓は、松元さんが参加する前から先輩たちによって活動が続けられており、当時は20人ほどのメンバーが在籍していました。指導者がいるわけではなく、先輩たちが代々その技を引き継いで、後輩たちに教えていました。当時、青龍太鼓は地元で非常に有名で、多い時には一日に5ヶ所もイベントに出演するほどの人気を誇っていました。
「鹿屋の中央郵便局の開局式でも太鼓を叩いたことがあります。各地でイベントに参加し、地域の人々との交流を深めることができました」と松元さんは振り返ります。その後、青龍太鼓は全国大会にも出場し、優秀賞を受賞するなど、その実力と情熱は全国にも知れ渡りました。
さらにはその活動は海外にも渡ります。青龍太鼓の活動を評価されて、アメリカに演奏しに行ったこともあります。
ドラムTAOとの出会いと協力
青龍太鼓の活動を通じて、松元さんは「ドラムTAO」との出会いを果たします。「青年団の活動中にドラムTAOと出会い、彼らのライブに青龍太鼓として一緒にイベントに参加したり、ツアーの裏方を手伝ったりしました」と松元さんは語ります。
青年団が解散した後も、松元さんは個人的にドラムTAOを鹿屋市に呼び続けることを決めました。それまでは青年団として呼んでいたのと、個人で呼ぶのはその大変さは桁違いだと思いますが、それでも松元さんには応援してくれる多くの人たちがいました。「一人で主催するのは大変ですが、地元の青年団で出会った人たちや地元の同級生たちが『協力するよ』と助けてくれたおかげで、ここまで続けることができました」と感謝の意を示します。
挫けない心、そして続ける理由
コロナ禍には、多くのイベントが中止になり松元さんも一度は「もう呼ぶのをやめようか」と考えたこともありました。それでも続ける理由について、「ライブが終わった後に『松元さん、ドラムTAOのライブに誘ってくれてありがとう!!すごく感動しました』とお客さんに言われると、こちらのほうがお金も時間も使ってもらっているのに、そんなことを言われると、私の方もそのことに感動しちゃって、また次も頑張ろうという気持ちになりますね」「ライブの開催はとても大変で、しんどい思いをしますが、開催後の感動と喜びは何物にも代えがたいものです。」と松元さんは笑顔で言います。

今後
9月16日には肝付町の肝付町文化センターでドラムTAOのライブが開催されます。「皆さんぜひ見に来てください」と松元さんは呼びかけます。これまでは鹿屋の文化会館で開催していましたが、今回はタイミングの都合で肝付町での開催となります。
松元さんが30年にわたって続けてきたこの活動は、本人の強い気持ちと地元の人々の協力と支えがあってこそ成り立ってきました。「自分自身がやりたいという強い気持ちがまずありました。そのことに同級生や友達が協力してくれて・・・。そしてこれが今では一番かもしれませんが、来場されたお客様が喜んで満足してくださる事が、30年以上も続けられた理由だと思います。そしてドラムTAOのパフォーマンスが本当に素晴らしいので一度でいいのでぜひあのライブを体験していただきたいです。」と松元さんは締めくくります。
松元さんの情熱と努力は、青年団がなくなっても鹿屋市の文化と地域活性化に大きな影響を与え続けています。今後もその活動がますます広がり、次の世代に松元さんの情熱が何らかの形で受け継がれていることでしょう。今後も多くの人々に感動と喜びを届けることを期待しています。
文・やうやう編集部
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