コロナ禍が流したもの

 やうやう14号をお届けします。恥ずかしながら私の息子についての記事を掲載いたしました。うちの子供ももう小学校6年生で、先日は最後の運動会でした。月並みな言い方ですが、子育てしていると時の流れが早いです。
 5年前の最初の運動会は2019年で、まだコロナが流行っていませんでした。朝から並んで場所を取り、昼になったら祖父母も含めて弁当をみんなで食べました。そんな運動会はそれっきりで、その後の5年間はずっとコロナで弁当もない午前中だけの運動会でした。

 40年近く前に私も息子と同じ小学校に通っていました。当時はいとこだけでも10人近く小学校にいて、おじさんおばさんたちも含めて大人数で毎年お昼を食べた思い出があります。私は運動は苦手で、運動会は決して好きではなかったですが、みんなで食べるお弁当とそのときしかでない果汁100%のジュースを毎年楽しみにしていました。

 今回、息子の運動会はコロナ禍もおわり、普通の運動会に戻ると思いきや、不思議なことに今回もなぜかうちの小学校の運動会は子供たちは持参した弁当を教室で食べて、親たちは家に帰るというものでした。コロナ禍も終わり、その必要はないはずですがなぜかこのようになったようです。
 これは憶測でしかないですが、運動会の運営には学校とPTAのお互いの協力が必要になります。校長を中心とした学校側かPTA役員の一部に午前中だけの方が楽だという判断があったのではないでしょうか。学校側としても、親としてもそれでいいなら混乱も少ないし、そうしましょうとしたのではないだろうか。「こんな最悪な運動会はここだけだ。」という声が私には聞こえてきましたが、忙しさを理由にPTAの活動はほぼできていない私としては、あまり強く批難もできません。というか、普段は室内で働いているので、午前中だけの運動会でも暑さに立ってられず二回も家に帰ってしまいました。こんなダメな男なので、今年も短い運動会にしたい気持ちもすごくわかるのです。さらにいうとうちの息子も運動は苦手で、どちらかというと運動会はなくてもいいくらいに思っているふしもあります。
 ただ、当たり前ですが、そうじゃない子供たちも多くいるはずだし、私がそうだったように運動会でみんなで食べるお弁当を楽しみにしていた親や子供たちもいたはずです。

 そもそもコロナ前のことを振り返ると、先の大きな戦争のことは人類社会として覚えていても、今回のような大きな感染症のことをどれだけの人が覚えていたでしょうか。コロナ禍が終れば、少しずつこれまでの日常を取り戻していき、社会は元に戻る。そんなものです。 コロナ禍では「新しい生活様式」や「ニューノーマル」などと、いまでは誰も覚えていない言葉が踊りましたが、それらが私たちの社会に大きな変化を与えたでしょうか。出前とオンライン会議は発達しましたが、新しい生活様式は継続しなかったし、ニューノーマルなんてあるはずありません。

 それなのに、運動会でみんなで食べる弁当はなくなるのです。これまでも私たちは昔あったさまざまなことを失くしています。しかもそれは、感染症や政府の方針など正当な理由があったわけではなく、一人ひとりが何気ない感情でそれを失くしているのです。働き方改革や、経済的に余裕がないこと、ひとり親で難しいに、町内会長と消防団長の喧嘩まで、いろいろと理由をつけて、自分たちの手でさまざまなことを、砂で作ったお城のように少しずつ溶かし、流してしまっているのかもしれません。

文・土屋耕二

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