鹿屋市長 郷原 拓男さん

23号掲載

やうやうインタビュー6 郷原拓男さん

(※こちらのインタビューは昨年12月にしたものです。)

――郷原さんは郷之原の出身で48歳ということですが、小学校、中学校はどちらですか?

小学校は西原台小学校で、中学校は名門、第一鹿屋中学校でした。

――名門、ですね。(笑)
一中は今も大きな中学校ですが、当時も生徒数は多かったですか?

当時は9クラスでした。

――これは一中卒業の友人から聞いたのですが、生徒会も当時していたそうですが?

一中の生徒会長に立候補して、落選してしまいました。副会長でした。

――中学生とはいえ、生徒会長になろうという想いはなかなかないようにも思いますが、やはり当時から政治家になりたいと思っていたのですか?

はい。小学校2年のころに父親が県議選に出て落選したのですが、その父を見て、私も社会をいい方向に動かしたり、政策をつくったりする政治家になりたいと憧れがありました。ですので、高校時代も含めて生徒会活動には興味がありました。

――どういったお父さんだったのですか?

夢を語り、夢に生き、夢を食べて生活しているというような父でした。

――(笑)なるほど。実は私も『やうやう』をどこかで読んでくれて、「こいつは面白いやつだな」と話がしたいと連絡をいただきお会いしたことがあります。当時はお父様はなにをされていたのですか?

当時は無認可保育園を運営していました。無認可ですから、行政からの支援もないので、社会に対して斜に構えるようなところもありました。そんな父をみて私は、ある種反面教師として、夢に生きることも大事だとは思うんですが、着実さ、誠実さも必要だなと複眼的に社会を見るようになったような気がします。

――中学校では部活などしていたのですか?

中学校では、部活もせずに勉強ばっかりしていました。あと、ゲームもしてました。

――ゲームはどんなものをしていたのですか?

ファミコンでしたね。

――中学校時代は楽しかったですか?

今思うと、何か目標や挑戦したいことがあるわけでもなく、そんなに楽しくはなかったですね。

――その後、鹿屋高校に進学されますが、そこではどうだったのですか?

それまでの生活を一変させたくて、目標や挑戦のために野球部に入りました。しかし、高校からはじめたので、3年間ずっと補欠・・・にも入れないという3年間でしたね。

――やめたいとは思いませんでしたか?

何度か思いましたが、辞めずに甲子園を目指すと公言しながらがんばっていましたね。

――部活は楽しかったですか?

今思うと、楽しくなかったですね。

――学校自体はどうなんですか? 楽しかったですか?

う~ん。そんなに楽しくなかったですね。

――さっきから楽しくないことばっかりですね。(笑)

高校2年のときに助手席に乗っている車が事故を起こして、両足首を骨折しました。これで100日間の入院をすることになるのですが、これが部活にも学校生活にもマイナスに働きましたね。

――大学への進学も考える時期だと思いますが、将来は政治家になりたいと考えていて、どのような進路を選ぶのですか?

東大に行きたいと3回受験しました。

――二浪したわけですね。東大を目指すとなると鹿屋高校でもかなり勉強ができないといけないはずですが、そんなに勉強ができたのですか?

チャレンジ精神が旺盛だったのかもしれませんね。(笑)

――なるほど。(笑)確認したいのですが、鹿屋高校の先生はなんて言ってたんですか?

「ちょっと無理かもしれないけど、浪人したらいけるかもね。」と言ってましたね。1年目は福岡、2年目は京都での浪人時代でした。

――これまで聞いていたら、勉強はお好きなんですね。

そうですね、嫌いじゃないですね。

――趣味とかはなかったのですか?

そういうのは当時はなかったですね。基本的に勉強ばかりでした。勉強に疲れたらゲームをするといった感じでしたね。

――さすがにその頃はファミコンじゃないですよね?

いやぁ~、ファミコンでしたね。

――そんなことはないでしょ? 僕と1歳しか違わないのに。(笑)まぁ、いいでしょう。とにかく、勉強をしていたのですね。予備校では楽しいことなどなかったですか?

・・・。特になかったですね。

――さっきから全然、楽しいことないですね!(笑)そんな浪人時代も、大阪大学の経済学部に入ることで終わりが来るわけですが、経済学部を選んだ理由はあるのですか?

政治家になるために法律か経済を勉強したいと思っていました。

――これまで基本的にずっと楽しくなかったとおっしゃってますが、大学に進学して開放感はあったんじゃないですか?

そうですね。大学では高校時代の野球部での経験から、大学から始めることができることに取り組んでみたいと思っていました。そこで、競技ダンス部、いわゆる社交ダンス部に入りました。

――なるほど。しかしですね、郷原さん。普通、社交ダンスは選ばないような気もするんですが・・・?(笑)

(笑)そうですね。まずは、部活の雰囲気がよかったですね。それと、おっしゃる通り普通は選ばないんですよね。だから先輩方が新入生にいかに入ってもらうかと勧誘が巧妙でしたね。それに社交ダンスは楽しかったですね。

――社交ダンスはどんな魅力があるのですか?

社交ダンスはスポーツなんですね。競技として確立されたもので、姿勢、フットワーク、ボディバランスなど、それぞれポイントがあります。それを一つ一つ練習して、クリアできたときは達成感がありますね。ペアになって小さな達成感を積み重ねていく競技です。そこが魅力ですね。

――男女ペアは4年間ずっと同じ人と組むのですか?

大学によっていろいろです。大阪大学の場合は新入生は1年間いろいろなペアを試すのですが、2年生からは固定のペアを組みます。私の場合は2年生で4年生の先輩と組んで、3年生では2年生と、4年生のときは3年生と組んでいました。一番いいときは、全国5位、関西チャンピオンまで行きました。今テレビで活躍しているキンタローは、4年生のときの2年生でしたね。

――うがった見方をすると、政治家にもなりたいと思っていて、社交ダンスは将来活かせるかな?というようなことはなかったんですか?

それはなかったですね。政治家になってからも、鹿屋のアマチュア大会に年に二度ほど呼ばれはするのですが、それくらいです。そのときは冷や汗をかきながらなんとかついていくって感じですね。

――卒業後はどうされたんですか?

一度は企業に務めたかったので、JALに内定をいただき4年間勤務しました。勤務先は、羽田と福岡でした。業務は空港業務といいまして、チェックイン、ゲート業務、旅客業務をしていました。

――JALといえば、その後、倒産しますが、その片鱗のようなものはあったのですか?

当時はまったくそんなことはなかったですね。入社したら当時の社長が業績も右肩上がりで、「良い会社に入りましたね」とおっしゃっていました。例えば、羽田空港では女性が240名、男性は20名というように女性活躍が進んでいる会社でしたので、勉強にもなりました。
その後は、28歳のときに母親の乳がんの再発などもあり鹿屋市に戻ることを決めました。

――帰ってからは、どうされたのですか?

実家が経営していた保育園と、介護施設で事務仕事から始めました。その後、保育士資格も取得して、たまには現場にも参加させていただきました。

――ご実家とはいえ、これまでのお仕事とは全然違いますが、大変じゃなかったですか?

当時は親にもなってなく、子育ての経験もなかったので、一から修行だなとしみじみと思っていましたね。

――今はお子さんがいらっしゃいますよね? 何人ですか?

5人です。

――・・・・。(しばらくの間があって)ご、5人ですか?

はい。(笑)

――子は授かりものとは言いますが、ちょっと授かりすぎではないでしょうか?(笑)

はい。上は中2、小6、小4、小1、4歳ですね。

――賑やかでしょうね。
奥さまとはどちらで知り合ったのですか?

29歳くらいに鹿児島大学の大学院に社会人入学で農学部に入るのですが、その関係で知り合いました。

――農学部はやはり鹿児島に帰ってきて農業を勉強しようという想いで行かれたのですか?

そうです。鹿屋の基幹産業は農業ですので、それを勉強したいというのと、当時はTPPや食料自給率の問題も注目されていたので、そういったことを勉強しようと思い、入りました。
一年目は、平日昼間に週3回くらい学生にまじって授業をうけていました。二年目は修士論文の作成ですね。

――修士論文のテーマはなんだったのですか?

農業と福祉の連携、いわゆる農福連携ですね。「農の福祉力」という論文で、今でこそ農福連携は注目をされていますが、当時はそんなに知られていませんでした。今思うと、大切なテーマを扱うことができたなと思っています。
農福連携は、農業の面では担い手がなかなか確保できない状況があり、福祉の方面では医療費や介護、障害福祉の報酬を下げることができないかという議論があるところに、ウィンウィンの関係を築いていけると期待されています。現在、国や県では林業と福祉の林福連携というのを進めようとしているのですが、このような政策は今後も展開していかないといけないと考えております。

――実際に農福連携を実施しているような事業所などはあるんですか?

はい。鹿屋、大隅は県内でも先進地域なんですが、全国的にみても先進的な取り組みをしているような状況です。

――その後は、大学院を卒業してからはすぐに県議に挑戦するわけですか?

31歳のときに卒業して、33歳のときに県議選に初出馬しました。当時は、見よう見まねで地域の皆さんから支えていただいて、無所属で出たというような形です。

――秘書の経験もなく初めての選挙。大変だったと思いますがどんなことをしたんですか?

私はとにかく、名刺をもって配って回るということをしました。それと同時に、地域の方々や青年会議所の皆さんが後援会事務所に入ってくれて、こう言ってはなんですが自主的に動いてくれたという感じでした。残念ながら落選という結果でしたが、有権者の皆さまと直接触れ合って、生の声を聞くというのが、政治の一番の原動力になるとその時の経験で学びました。

――最近も郷原さんに近い人から、いまでも一人ひとりに会いに行っていると聞いたのですがそうなんですか?

はい。それが私の一番の強みかなと思います。どぶ板じゃないですが、地域をくまなくめぐってきたのは誰にも負けないという自負があります。回るとご批判もいただくこともときにはありますが、それはそれで受け入れるようにしていきたいと思っています。

――その後、県議に当選して三期の途中まで務めますが、印象に残っているお仕事などありますか?

議員の仕事は形に見えるものと形に見えないものがあると思いますが、形に見えるものとしては、現在進んでいる寿大通り線の拡幅、田淵町の交差点、あと今度祓川にバイパスが通るのですが、こういった仕事は知事に何度も陳情し、森山先生にも現場を見に来ていただいたりしました。形に見えないものでは、行政のデジタル化の予算拡充など様々なことに取り組みました。

――当選したときは自民党から出馬ですが、この10年くらいで日本の社会は自民党への風当たりもかなり変わったようにも思いますが、そのあたりはいかがですか?

それぞれの議員一人ひとりが有権者から負託をうけているんだという認識を、あらためて持ち、それぞれが襟を正して、誠実に、謙虚に活動をすることが大事なのかなと思います。党の方針などもありますが、それ以上に議員の資質が問われているのではないかと思います。

――そういった考えはどこからくるのでしょうか? なにかの教えや誰かの影響、あるいは落選の経験などですか?

何のために政治をやっているのかというのを考えると、役職のためにやっているということ以上に、地域をよくする、社会をよくする、制度をよくするという想いでやっています。さらに、現在は限られた財源の中で政策を実現する必要があります。そのためには、市民の皆さまの意識の変革というのをお願いしないといけません。そのときに自分が傲慢であったらいろんな物事は動かせないと思っています。ですので、謙虚で、愚直で、誠実で、感謝と自分自身の研鑽をつんでいく、そんな自分であり続けたいなと思っています。これは、政治だけではなくどの業界でも不可欠なことじゃないかなと思うばかりです。

――素晴らしいですね。私も勉強になりました。残りの市長選がんばってください。本日は長時間ありがとうございました。

インタビュアー・土屋耕二
(2025年12月23日)

トークイベント『鹿屋市長選候補者に人生のあれこれを聞いてみっが vol.1ごうはら拓男』
当日の様子や、観覧者やコメント欄からの質疑応答はこちらです。
インタビューの全編が再生できます。

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