22号掲載
「自分たちの生活を少しでも楽にしてほしい」
これが有権者の願いだろう。今回の鹿屋市長選挙も例外ではない。しかし、その願いを実現するための ‶方法論″ において、表向きの公約では見えにくいが、水面下には「これまでの日本型モデルを続けるのか」「新しい自治のあり方へ舵を切るのか」という、本質的で避けて通れない選択が潜んでいると思う。
戦後の日本は、地方から若者を都市へ送り出し、製造業を中心に成長で得た富を地方に還元する仕組みで発展してきた。農業や畜産を支える補助金、道路や港湾の公共事業は、その仕組みを維持するための ‶中央集権型エンジン″ であると同時に、地方への ‶再配分″ だった。あまり言われていないが、自民党はどの政党よりも再配分政党だったからこそ、ここまで長期にわたって国民の支持を得てきた。
しかし、人口減少が本格化したいま、このモデルは土台から揺らいでいる。地方から若者が消え、日本全体の成長を続けられなくなった現在、「中央に集めて地方に配る」方式は、もはや永続できる保証がない。
鹿屋市は農業生産では全国トップクラスの力を持つが、農家の所得は全国最低クラスという深刻な矛盾を抱える。努力しても豊かさに結びつかない。この現実こそ、旧来モデルの限界を示しているように見える。
僕たちの前には二つの道がある。一つは、従来の路線を継続する道だ。国とのパイプを生かし、補助金や公共事業を確保し続けることで地域を維持するという考え方である。公共事業に生活が直結する人々にとって、これは現実的で安定した選択肢だろう。「日本経済が厳しくても、まずは自分たちの生活を守りたい」という思いは、誰にとっても切実だ。
もう一つは、旧来モデルの限界を正面から認め、新しい価値観を模索する道だ。中央頼みではなく、地域全体で新しい働き方や産業、コミュニティの形を再構築していこうという発想である。
どちらが正しいかは簡単には決められない。旧来モデルには実績があり、新しい道には不確実性がある。それに、新しい市長が誰であれ「鹿屋市長」として中央から引っ張るのも仕事なら、新しい地域社会を描くのも仕事のはずだ。
中央依存のモデル ‶だけ″ をまだ信じるのか、それとも新しい地域社会の形を自ら描き始めるのか。それが今回の市長選の、表には出てこない「真の争点」だと思う。
文・やうやう編集長 土屋耕二

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