(23号掲載)
今回の挑戦を決めた一番のきっかけは鹿屋市長選の公開討論にあります。ここに参加した私は、候補者に少し厳しいが市民なら誰もが疑問に思う質問をしました。すると、候補者を応援している会場にいた現職の鹿屋市議からやじが飛んできました。そして信じられないことに質問のやりとり自体が成立しませんでした。一市民である私からの質問をやじで潰す市議を見て、これは自分がやらないといけないなと、市政に挑戦することを決めました。
勢いで決めたとはいえ、私のこれまでの活動を振り返ってみると、政治の世界に飛び込んでみようと決意するにはそれなりの必然性があるように思えてきました。
私の学生時代はホリエモンやサッカーの中田英寿が時代の寵児として注目されていて、その後の政権交代への期待も年々高まっている時期でした。そこには「新しい時代が来る」という社会の空気が確かにありました。それに当てられた私は、まだ「ブラック」なんて言葉もない殴る蹴るが当たり前の、地獄の修業を生き抜き2008年に「生うどんつちや」を開業します。
店も安定してくると、人間は次の挑戦を見つけるものです。私はここ鹿屋、大隅の政治的な話題をしにくい「議をゆな(言うな)」の空気を変えたくて、この「やうやう」を始めます。そこでは、核の最終処分場にゆれる南大隅町で座談会をしたり、参政党の議員を招いて議論したり、鹿屋市議候補者アンケートをしたり、日置市の永山市長をゲストに「僕たちはなぜ市長になれないのか」といった特集やイベントをしてきました。
一人で語っても限界があるので、私は鹿児島の同世代の人たちに声をかけました。しかし、彼らは細部の考えの違いでレッテル貼りをして、素人考えの議論を無意味と決めつけ、議論が成り立たないことがわかりました。この失望が「もう自分一人でも政治をやるしかないな」と決意をさせる大きな後押しになりました。
とはいえ、彼らをあまり責める気にもなりません。これまでは保守もリベラルも上意下達でうまくいっていて、私と問題意識を共有できないのも仕方ないのかもしれません。しかし、保守は、頼みのアメリカがとんでもないことになっていますし、リベラル側も、アメリカがダメなら中国でいいかと言えば、そうは言えないのは誰もが知るところです。
グローバル化が進む現在、矛盾がどんどん大きくなってきて誰もこれを解決できる道筋を見出せません。このように政府や国際社会は矛盾をかかえてどうにもならない状況にあっても、私たちの日常生活である労働、子育て、教育、医療、介護等に関わる決定のほとんどが地方行政によって行われています。そこではその矛盾はとりあえず置いておいて、目の前の人たちが困っているなら解決に動くということが必要です。全国各地で若く優秀な首長が誕生している背景には、この矛盾なく市民のために仕事ができるということも関係あるように私は思っています。
挑戦することを表明すると不思議なことが起こりました。私のこれまでの活動を見ていたという多くの人たちがサポートを名乗り上げてくれたのです。ビラ配りをしてくれる人、元市役所職員や市外、県外の市議の人たち、選挙活動に詳しい人たち、政策立案に協力してくれる各分野の専門家たちが現れました。
感動しました。私の活動はなかなか広まらないし、仲間になれると思っていた人たちには伝わらないし、ある種あきらめての政治への挑戦だったのですが、そんな人たちはごく一部で、多くの仲間が集まってくれました。私のこれまでの活動がすべてつながっていたのです。
私は、町おこしの新たな挑戦や、時代にあった学校教育など、中長期で成し遂げたいこともありますが、まず取り組むのは、議会の見える化と、市民との定期的な対話の仕組みづくりです。議会で何が議論され、何が決まり、暮らしがどう変わるのかを、誰でも追える形にします。正解が一つではない時代だからこそ、立場の違いを越えて話し合い、「鹿屋でも、できる。変われる。」そして、「議を言うのが議員の仕事」を胸に鹿屋のために働きます。これはこれまでの「やうやう」の活動の延長線上にあるものです。うどん屋も「やうやう」も続けますので、どうか、私の挑戦を見守っていて下さい。
文・土屋耕二

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